雪の果て


 窓の外は雪。
 降り頻る雪の中、駆けてくる彼の姿を、私はぼんやりと見つめていた。此処から彼を見つめることを、いつから辛いと思うようになってしまったのだろう。
 少しずつ、弾むような彼の足音が近付いてくる。あと五秒。頭の中でゆっくりと数えるのは、もう癖になってしまった。
 計算通りのタイミングで、扉が開く。息を切らせて部屋に入ってきた彼は、握り締めた小さな花束を笑顔で私に差し出した。
「ありがとう」
「来る途中で、花屋の前を通りかかったからさ。でも、美紀の方から話って珍しいね」
 屈託のない無邪気な笑顔。その笑顔が消えてしまうと判っていながらも、私は打ち明けると決めていた言葉を口にした。
「啓、私と別れて欲しいの」
 水を打ったような静寂の中、啓の呼吸音だけがやけに大きく聴こえる。その音を聴きながら、彼の言葉を待った。
「どうして」
 一言だけの言葉が重く響く。打ち拉がれた表情で私を見据える啓の肩は、小さく震えていた。
「ずっと一緒に居ようって、約束したじゃないか」
「…………啓が私を大切にしてくれるのは嬉しい。だけど、それに答えられなくなったの。重くなった」
 何かを言葉にしようとして、啓は躊躇うように口を噤んだ。私に背を向け、本気なのか、と消え入りそうな声で訊く。
「ずっと考えて、決めたの。こんな想いで、啓とは一緒に居られないと思ったから」
「俺は…………俺は、美紀と一緒に居る時間が一番幸せだったよ。どんなに短い時間でも、顔が見たかった。触れていたかった。そう思っていたのは俺だけだったのか」
 彼の問い掛けに、私は答えなかった。私に、何かを口にする権利はないと思うから。
 けれど、その沈黙は彼にとって充分な答えになったようだった。静かに扉に手をかける。
「さよなら」
 私の声に、啓はつと足を止める。まるで私の心が変わることを待っているかのように立ち尽くした後、何も言わずに部屋を飛び出した。叩きつけられた扉の音が、私の心を刺す。

 ふと、窓の外に目を遣る。世界を多い尽くしてしまいそうな程に深い雪は、真白く無機質なこの病室と繋がっているようにも思えた。
 雪の中を彼が走っていく。私が入院してから毎日、彼は私の為にこの道を走ってきてくれた。晴れの日も、雨の日も、雪の日も、風の日も。何年経っても変わらず、私の為だけに。その姿を見ることが私の幸せだった。絶望の中に居た私に、啓は希望を与えてくれた。
 病室から出られない私に、色々なものを見せてくれたのもまた、啓だった。自分の好きな歌、面白かった本、綺麗な花。今日はどんなことがあったか、毎日どんな風に過ごしているのか、私が生きることを諦めないように、毎日、毎日。そんな日々も、今日で終わる。
 走り去っていく彼の姿が、雪の向こうに消えていく。きっとこれで良かったのだ。啓に私の面影を抱いて、生きて欲しくはないから。
 あと三ヶ月で、私の二十年の生涯は幕を降ろす。きっと啓は、私の為に泣いてくれるだろう。それが耐えられなかった。
 残していく悲しみよりも、残されていく悲しみは長く続くと思う。だから私は、別れを選んだ。私の死が、彼を縛らないために。
 私は最低だ。啓を傷つけない為の選択。そう決めたはずなのに、結局彼を傷つけてしまった。本当は、自分が傷つかないために作り出した言い訳だったのかも知れない。
 ベッドに横たわり、私は静かに目を閉じる。眠るたびに、もう目覚めることが出来ないのではないか、不安に押し潰されそうになる。だからいつも、眠りに堕ちるたびに願っていた。もう一度、啓に会えますように、と。でも、今日からは違う。もう、自分のために願う必要なんてない。
 涙が止まらないのは、死ぬことが怖いからじゃない。彼に忘れられることが辛いからではない。
 ――今でも啓が好きだから。
 それでも、神様。もし本当に居るのなら、彼の記憶から私を消してください。啓を誰よりも幸せにしてください。
 私の最後の願いを運ぶように、窓の外で雪が風に舞う。
 私はもう一度、窓の外を見つめてぽつりと呟いた。それは、昨日までの私に告げる別れの言葉。

「さようなら、私の初恋」

 窓の外は雪。
 私の想いを乗せて、雪は遠い空の向こうへと消えた。



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