花桜の咲く頃に


 春を探しているの、と彼女は言った。


「ねぇ、あなたは知らない?」
 ある日の昼下がり。見知らぬ少女に問い掛けられた僕は思わず固まってしまった。
 春? 一般的に言えば季節。けれど、探し物とあらば人の名前かペットの名前という線も考えられる。
 と、いうよりも、どうして僕はこんなにも真剣に考え込んでいるんだ。相手が女の子だからって、わざわざ不思議な質問に頭を悩ませる必要なんてないのに。…………ないのに。
 彼女の酷く残念そうな顔を見ると、何故か無視出来なくなる。
「あ、あの…………良かったら、一緒に探そうか」
 ああ、何を言っているんだ僕は。普段ならこんな事はしない。否、出来ない。それなのに、どうしてか彼女の不思議な雰囲気は僕を惹きつけてやまなかった。
 確かに彼女は綺麗だ。驚く程小さい顔に、大きな目。吹けば飛んでいきそうな細い身体、雪のように白い肌。
 本当に自分と同じ人間なのか疑わしくなる程に、彼女の美しさは確かなものだった。
 でも、それだけじゃない…………そんな気がする。
「本当? あなたみたいに優しい人、初めて」
 彼女は大きな瞳を更に大きく見開き、嬉しそうに僕の手を取る。
「そっ! そんな事、ないと思うよ…………」
 さりげなく彼女から手を離し、引きつった笑顔を浮かべる。何とか彼女の興味を自分から逸らそうと、僕は唐突に尋ねた。
「春って季節の春?」
 彼女は小さく頷いた。その仕草はまるで、幼い子供のように見えた。
「見つけたいの。私の帰る場所だから」
「え?」
「何でもない。もう、行かなくちゃ」
 そう言って彼女は僕に背を向ける。
 ――引き留めないと。
 遠ざかる彼女を見て瞬間的にそう思った僕は、思わず叫んでいた。
「待って!」
 彼女は足を止め、不思議そうに振り返る。ついでに道行く人達も。
「君の、名前は?」
「…………秘密!」
 悪戯っぽく微笑み、彼女は駆けていく。僕を置いて、遠く、遠く。
 心の何処かでもう会えない、そんな漠然とした予感のようなものを感じていた。


 哀しいかな、予感は見事に的中した。再び彼女に会えたのは、最初の出会いから一年後の春。
 しかし、僕にとっては最高の幸運だった。これを奇跡と言わずして何と言うのだろう。
 けれど、彼女は僕を覚えているのか。ふとそんな不安が過る。もし忘れられていたら、僕は唯の危ない奴だ。
「あ、あの…………」
 枯れ木が並ぶ並木道で、彼女はまだ植えられたばかりの若木を真剣に見つめている最中だった。声を掛けるのもはばかられる気がしたが、意を決して声を掛ける。
「…………? あ――良かった、もう会えないかと思った」
「僕も」
 無邪気に笑う彼女を前に、僕も自然と笑顔になる。何か話さなくては、と気持ちばかりが焦って、肝心の言葉が出てこない。
 そんな僕を見兼ねたのか、彼女は目の前の若木指差した。
「これ、どうしたの?」
「え? ああ、この間、町でボランティア活動があったんだ。普段はそういうの参加しないんだけどさ、桜の木が植樹出来るって聞いて……。ほら、君が春を探してるって言ってたから。咲くにはまだ時間がかかるけどね」
 嗤う僕の顔を彼女は真っ直ぐに見つめていた。喜んでいるような、哀しんでいるような、複雑な表情のまま彼女は僕から目を逸らし、俯く。
「…………これでまた――」
 彼女が何か呟いたのを耳にした僕は隣にしゃがみ込み、俯く彼女の顔を覗き込んだ。
「私、またこの場所に戻ってこられるかどうか判らないの。あなたにも……、会えない」
「来年の春まで?」
「もっと、ずっと長くかも知れない」
 今にも泣き出しそうな彼女に、僕は何一つ言葉を掛ける事が出来ない。どうして良いのかさえ判らずに、唯そっと彼女の手を握った。
「――大丈夫。僕はずっと、ここで待ってる」
 それからの数日間、僕達はほんの僅かな時間さえ惜しむように、二人で過ごした。特に何をするわけでもなく、彼女の幸せそうに笑う姿を見ているのが好きだった。
 しかし、別れはあまりにも唐突に訪れた。
 いつも彼女が待っているはずの場所に残されていたのは、桜色の封筒が一つ。
 ――見たくない。
 まるで運命に導かれるように出会い、惹かれあった事も、共に過ごした僅かな時間も、別れという絶対的なものがその全てを奪い去ってしまう。
 …………でも、見なくてはいけない。僕は震える手でゆっくりと封筒を開けた。

『ありがとう。さようなら。またね。――桜』

 大きな便箋に小さな文字で書かれた言葉と名前。春を探してると言っていたのに、誰よりも春らしい名前じゃないか。
 僕は思わず口元を綻ばせながら、彼女が書いた言葉の後に続けて言葉を書き足す。

『待ってる。この先もずっと、君を待っているよ。――春斗』

 僕も人の事は言えないな。彼女に負けず劣らず春らしい名前だ。
 僕は桜の若木を見つめ、その細い枝に触れる。
 僕等が巡り合った事。それは、二人が“春”という名の居場所を見つけたという事。
 今はまだ、この哀しみを拭い去れないけれど、大丈夫。


 この桜の花が咲く頃には、また君に逢えるから。



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